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沿革 1980年代

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PAOSの歩み(代表的な仕事と研究成果):1980年代

'80

1980〜1992年
「PAOS New York 」設立

PAOS創業メンバーの1人小松紘行の希望によりNY進出を果たす。その後、Joshua Marcusが代表に就任し、独自の活動を展開。情報収集の拠点として日本のクライアントへの各種サービス事業を行ったり、現地法人の設立支援等で大きな成果をあげていく。しかし、日本人が米国企業の経営の根幹であるアイデンティティの問題に関わり成果を上げることの難しさを実感し1992年には閉鎖。
しかし、PAOSはこの取り組みにより貴重な経験と人的ネットワークを得ることとなった。

1980年〜
世界第一位企業を目指し本格的CI開発に挑戦「ブリヂストン」

ブリヂストンタイヤから、1979年末「創立50周年の記念事業としてCIを導入したい」との依頼を受ける。当時から超優良企業であり企業コミュニケーション意識も高かった同社に対し、PAOSは多角的な調査等を通じてプロジェクトの「将来目標とは?」との原点確認を行い、常務会に単なる表現レベルを越えたCI目標を提案。その結果「ブリヂストンは拡がる、世界へ、生活へ」なる開発コンセプトを策定することとなる。この目標は、BRIDGESTONEのブランドイメージを世界に広め、タイヤでは世界1のメーカーに(当時は世界6位)、そして国内では揺るぎないトップメーカーのタイヤ部門に加えて、スポーツ等の他事業にも進出し成功していける広角的な企業イメージの構築を目指す、というものであった。この目標をもとに、まずはイメージ面を先行させ、これに事業実態が牽引されていくという構造づくりを志向。同時に、世界的なブランドイメージコントロールが東京本社を中心に実施できる体制への構造的アプローチも重要な目標であった。

'81

1981年〜
CIサクセスストーリーの神話と呼ばれる「KENWOOD」

80年の暮れも押し詰まったある日、トリオから2人のCI担当者が訪ねて見えた。「これから採用しようとしている社内でデザインしたロゴを見て、意見を聞かせて欲しい」との依頼であったが、真意は極端な経営不振にあえいでいた同社蘇生のきっかけを掴みたいということであった。そして年が明けて「これでは難しいと思う」と理由を付して述べたところ、改めて石坂一義社長(日銀理事から救世主として就任)が来られ、その場で「白紙から仕事をお願いしたい」との晴天の霹靂のような依頼を受けることとなる。
PAOSでは急遽広角的な調査を実施し、イメージマーケティングコンセプトを明確化の上、コーポレートブランドをTRIOからKENWOODに変更するなど、思い切ったブランド&デザイン変革を核とする蘇業策を提案。当初は社内に反対派も多く、妥協策の常務会決議としてはカーオーディオ部門以外にKENWOODブランドの使用は認められなかったが、やがてこのブランド&デザイン戦略は世界中の若者たちの心を捉え圧倒的な支持のもと、3年後には市場からTRIOのブランド商品は消え、5年後には売上げ倍増の成果も上がり、社名も株式会社ケンウッドに変更されその後も急進を続けることになる。

'83

1983年〜
企業文化大革命型CI「INAX」

「伊奈製陶という社名を調査して欲しい」との小さな依頼からスタートしたINAXのプロジェクトは、結果、10年を費やする最も幅広い企業・経営変革型CIへと拡がり、のちに「日本型CIの代表例」として全米400の経営系大学にそのケーススタディが紹介されるに至る。思い切ったサクセスストーリーの陰には必ず素晴らしい意思決定者としての経営者が存在するが、同社も伊奈輝三(現名誉会長)という類い稀なる名経営者無くしては、このような歴史的にも秀抜なプロジェクトは生まれ得なかったであろう。
INAXのCIはその思い切った社名変更もさることながら、新理念構築・事業開発・開発型企業体質への変換など7軸からなる時代先取り型の企業変革が、相乗総合的に成果を生んだ他に例を見ない卓越した事例と言えよう。特に、当初トイレ市場占有率80%であったガリバーブランドTOTOへの挑戦を核とする水回り設備事業の革新は、わが国の市民生活者のトイレ意識を一変させ、約10年で日本のトイレの市場規模を3倍に育てるという、画期的マーケット・クリエーション(市場創造)型プロジェクトとなった。
救急医療型の成功事例はPAOSにも多いが、予防医学型CIとしての典型的なサクセスストーリーがまさにINAXである。アイデンティティの変革・確立デザインが、情報化社会型の企業存立に革命的な好変化をもたらす格好の具体的ケーススタディと言えよう。

'84

1984年〜
わが国最大の民営企業誕生「NTT」

NTTは、PAOSが手がけた最大規模のプロジェクトである。そしてそれは、歴史的必然とも言える産業史上の大地殻変動であった。
わが国の電気通信事業は115年間国営として営まれてきた。従業員数30数万人(下部組織まで入れると約100万人)の大組織を、どのようにしてスムースに民営化していくのか。電電公社からNTTへの大変革プロジェクトは、わが国では類例の無かった一大CIプロジェクトと呼べるであろう。にもかかわらず準備期間として与えられたのはわずか1年弱で、新しい民間企業に変革していかなければならなかったのである。
当初このプロジェクトは、7社に対する指名企画コンペティションとして始まった。ところが、提案締め切りの約1週間前、電通から共同提案の申し出を受け、「広告・販売促進に次ぐ第三の事業の柱として、企業Identity事業を共同で進める」ということを前提としてPAOSはこの共同提案の申し出を受け(結局この約束は守られなかったのだが)、この分野における数々のノウハウを電通に開示。コンペでは勝利を収め、プロジェクトの委託を受けることとなる。
PAOSは新会社の企業ブランドとして「NTT」を提案し、シンボルマークのデザインを亀倉雄策氏に特命依頼。そして85年4月、新生NTT (正式社名「日本電信電話株式会社」)がスタートした。このプロジェクトは通常「民営化」と捉えられるが、実際は上から下へのお上発想に貫かれていた旧態組織を、いかにサービス業化していくかということであった。その意識改革こそが最重要事であるとし、外部の人々からの見る目を変えることでそれを達成していこうとする「インダイレクト・コミュニケーション」の発想を提案、それが時の電電公社総裁にしてNTT初代社長となる真藤恒氏の理解を得、やがて誰もが認めるCIの大成功につながっていく。
このサクセスストーリーによってCIという分野が巷間多くの人たちに知られるところとなり、日本は良くも悪くもいわゆる「CIブーム」の時代に突入していく。

'85

1985〜1992年
「PAOS Boston」設立

国際的プロジェクト伊藤忠等では大いなる貢献を果たすと共に、ハーバード大学MBAやスタンフォード大学MOT等のビジネススクールの教科書にPAOSのケーススタディが取り上げられるキッカケをつくるなどの面で、PAOSの国際的認知拡大に大きく寄与。しかし、その後わが国のバブル経済崩壊期により日本からの依頼が無くなったことにより、1992に解散。

'88

20周年記念展

設立20周年を期に、それまでの実績と研究の成果を総集する展覧会を六本木アクシスビルで開催。大きな話題を呼ぶ。
この会場に、わが国デザイン界の両巨頭とも呼べる勝見勝・亀倉雄策両先生が偶然にも同時に来場され、その時の「これぞ本来のデザインが在るべき姿」との会話が実に興味深かった。勝見先生はPAOSの姿勢と仕事に感動され、「ぜひ一度君のオフィスを訪ねたい」と言われながらも、その直後に急逝されてしまった。戦後日本のデザイン界をリードされ理論的主柱でもあった勝見先生に来社頂けなかったのは、返すがえすも残念である。だが、その後、勝見先生を顕彰する「勝見勝賞」が設けられ、われわれはその記念すべき第一回受賞者となる。

'89

20周年記念三部作刊行

設立20周年の記念出版として、「価値創造する美的経営」(PHP刊)、「シンボリック・アウトプット」(プレジデント社刊)、「PAOS デザイン」(講談社刊)の3部作を出版。これらはPAOSが創業以来積み上げてきた理念・企画・制作の総括と区切りの書籍となる。

「毎日デザイン賞」受賞

「中西元男とPAOSの人々」が毎日デザイン賞を受賞。この賞は、わが国デザイン関係者が最も欲しいと望むデザイン賞と言われる。PAOSは原則として自ら応募をして賞を取りに行く行為をなさない主義であるため、このような第三者の推薦かつ評価で戴ける実力賞は本当に嬉しい。
翌年には受賞記念パーティを麹町マツヤサロンで催したが、デザイン界からは亀倉雄策先生、実業界からは松屋の山中カン社長、キリンビールの本山英世社長など、多くの経営トップも駆けつけ実に盛大な祝賀パーティーとなった。


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