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沿革 1990年代

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PAOSの歩み(代表的な仕事と研究成果):1990年代

'90

「第1回勝見勝賞」受賞

中西元男が第1回勝見勝賞を受賞。この賞は戦後日本のデザイン界への最大の功労者であり指導者でもあった勝見勝先生を顕彰して設けられた賞で、デザイン界の芥川賞とも称せられ今日に続いている。前述のごとく先生の来社は叶わなかったが、同賞の最初の受賞者に選ばれたのは実に光栄である。因みにただ一枚だけこのために制作された表彰状は田中一光先生のデザインである。

初の韓国プロジェクト「HANSSEM」

韓国からの最初の依頼となったHANSSEM (ハンセム) 社のCIプロジェクトがスタート。同社はその後デザインに理解の深い、趙昌杰(現会長)、崔楊河(現社長)に率いられ、韓国最大のシステムキッチン・家具・インテリアビジネス企業へと成長していく。HANSSEMからの依頼のきっかけは、中西の旧知である韓国デザイン界の大立者でソウル大学教授の趙英濟先生のご紹介であった。当プロジェクトは、韓国を代表するCIの成功事例として国家表彰も受けている。
同年、長く研修生としてPAOS に在籍していた金民氏が帰国し、PAOS Seoul 連絡事務所を設立。現在この機関は株式会社CDR Associates が継承している。

'91

「New DECOMAS」刊行

「New DECOMAS -デザインコンシャス企業の創造」(三省堂刊)上梓。この本は、CIデザインの教科書を創ろうとの企画で、CIに関わる全てのプロセスをデザイン制作を中心に学べるよう全教程を50回/1年間のプログラムでカリキュラム化したものである。この内容が全て習得できれば、システム志向が可能な相当優秀なデザイナーが誕生することを想定している。
同書は、韓国・台湾・中国の各国語版も追って刊行。ただ、オーストラリアで発刊予定で原稿段階まででき上がり、むしろ欧米から高い評価を受けたであろう英語版が、理由不明のまま中途挫折したのは何とも残念であった。

'92

新たなブランド戦略注目時代を開いた「NTT DoCoMo」

NTTから移動体通信網事業が分離独立。いわゆる携帯電話時代の幕開けである。PAOSは「DoCoMo」のブランドネーミングとひときわ個性的なロゴデザインを提案し、「いつでも、どこでも、だれとでも」の個人通信網時代をアピール。この斬新なネーミングとデザインは、立ち上がり時期の携帯電話の代名詞のようにもなり、一気に著名ブランドへと成長する。
だが新会社設立当初は、NTT社員の多くの人たちがこの新会社への移籍を躊躇した。それが後に、まさかあれ程までに急速な発展を遂げ、親会社を抜くような存在に急成長するなどとは、当時は関係者すら想像だにしていなかったのが実状であった。

'93

中国との出会い

中国との最初の接点は、田中一光先生からの「中西さん、北京に行って講義をして貰えませんか?」との一本の電話であった。結果、依頼主の北京中央工芸藝美術学院(現清華大学芸術学部)の視覚デザイン部門のトップ陳漢民先生を紹介され、お引き受けすることとなった。
そこで2週間の予定で北京に出かけてみたものの、当時の北京は今とは違い驚く程の貧しさと汚さだった。この頃の街の様相は丹念にビデオに記録してあるが、道路を最新ベンツと荷馬車が平行して走っているような不思議な光景には目を見張った。学院からの迎えの車:紅旗は僅か15分の距離で9回エンストした。
講義は北京中央工芸藝美術学院における特別講義で、その際強く印象に残ったのは学生たちの一言一句さえも聞き漏らすまいとする食い入るような熱心な瞳である。加えて、当時の中国の「集会には常に共産党員が立ち会い監視をする」という規則が、何と大学の授業にも適用されており、じっと見つめるその異様な雰囲気は今も忘れられない。
毎日午前中は講義だったが、午後には次々と要人達との会見がセットされていたのにも驚いた。経済部副部長(経済産業省副大臣)、国家工商業管理局、中華全国工商業連合会、全国広告協会等々のトップたちで、滞在中ほぼ毎日こうした予定の繰り返しだったのである。

それにしても、どうにも不可思議だったのが、初めての北京訪問だったにもかかわらず、現地の人たちは何故かPAOSや中西元男について非常に詳しいということであった。しかし、滞在の終盤になってその謎は解ける。北京一の繁華街「王府井」の大きな書店に連れて行って貰うと、何とそこには見たこともない中西元男著という中国語の本が高く積み上げられ売れていたのである。これは、PAOSに関する台湾の海賊版や勝手な編集本が台湾から北京に持ち込まれ売られていたものであった。とんでもない著作権侵害だが、皮肉なことにその海賊版類のお陰で、中西元男は知らない間に中国でも有名人になっていたという次第だった。
ともあれこれを機に、中国との深い関係が築かれていくことになり、出会いとは実に不思議なものと思わざるをえない。

'94

1994年〜
韓国の食品会社「第一製糖」のCI

韓国企業の2社目のCIプロジェクトは、第一製糖(Cheil Jedang)である。韓国からのプロジェクト依頼はそれまでにも何度かあったのだが、結果から見ると殆どは初めから発注先の決まっているいわゆる出来レースが大部分で、国際コンペのスタイルを粧うためにわれわれが利用されたとしか思えなかった。今もそうした韓国企業への提案書がいくつも残されているが、それらの殆ど全てにおいて、頼む時には実に熱心だが選考結果の報告すら何一つ受けていないケースが大部分であった。
それに比べると第一製糖の対応は実に紳士的で、その時に交わした契約書を見てもPAOSがこれまでに結んだ類書の中でも最高精度のものと言える。そもそも第一製糖は、韓国一の財閥「三星グループ」の起点企業である。創業者:李秉負長は自社の社風にかつての住友財閥の社風を求めたと聞いたが、工場見学中などにもわが国企業をはるかに上回る企業一家 (家族ぐるみ) 主義が随所に見られ感心させられた。

'95

「PAOS北京」設立

中国側からPAOS の現地法人を設立しないかとの申し出を受け、100%独資外資の現地法人を北京に設立。これが現在の「PAOS北京 (博奥司企業設計有限公司)」であり、この現法は中国初のソフト系外資100%の現地法人と言われている。宋世偉を総経理に迎え、以後彼の経営方針に従い今日に至っている。

「北京CI大会」開催

中国における市場経済化をCIという面から指導・応援して欲しいとの要望を受け、「北京CI大会」(中国・日本・アメリカ・韓国・台湾・香港共同プロジェクト)を主宰開催。中華全国工商業連合会の王光英名誉会長を迎えて展示会とシンポジウムからなる盛大な大会を挙行し、中国のCI分野の歴史にエポックメーキングな足跡を残した。
その後、中国ファッション協会、国家経済局、中国広告協会等から頼まれるままに、この分野における草創期の啓蒙活動として各地で種々の講演を行っていくことになる。この延長上で中国服装服飾協会(中国ファッション協会)からも種々相談を受け、彼らのためにボランティアの講演会を何度も行った。主催者は参加者から結構高額の受講料を取るわけだから、寄附講座を提供しているようなものであった。そういった経緯もあってか、中西は同協会からピエール・カルダンに次ぐ最高顧問という肩書きを戴いている。当時事務方で走り回っていた若手たちが現在はすっかり偉くなっており、春の年次総会「北京ファッションフォーラム」などには毎年招待を受けるのだが、世界中から招かれるVIPの中でも特別待遇である。「最初に井戸を掘った人」を大切にする中国らしい対応である。因みに中西は「世界CI設計策画大師」なる尊称で呼ばれている。

'97

1997年〜
「PAOS上海」設立

広い中国でビジネスを展開していくためには、政治の中心である北京とは別に、やはり経済の中心上海にも現地法人を設ける必要があると感じ、「PAOS上海(派司耐特形象設計有限公司)」を設立。この現地法人は、かつて武蔵野美大で留学生として中西の講義を受けたという王超鷹(現代表)との出会いがあり実現したものである。
以来、PAOS上海はいくつものサクセスストーリーを築き、中国のこの分野では代表的な企画制作プロ集団として名を成している。PAOS上海には日本への留学経験者も多く、日本人来訪者に対する親切な対応は大変感謝され、その成果として日中間の大きな人的ネットワークを築き上げている。

ハーバード&スタンフォードビジネススクールのテキストに掲載

ハーバード大学MBA・スタンフォード大学MOTの両ビジネススクールは共同で教科書を作成しており、そこにPAOSの事例が「PAOS:Metapreneurs in Corporate Identity」のタイトルで取り上げられた。これはマーケティング・マネジメントという入学生全員が必ず読まなければならないテキストである。
これはシリコンバレーで最も多くの起業家を育てたと言われるT.Kosnik教授の3年近くにわたる調査取材の成果であり、PAOSとしても誠に名誉なことであった。
「なぜPAOSを?」との質問に対し、Kosnik教授から「企業の体や心を治すコンサルティングは沢山見てきたが、企業に感動的な経営環境を創り変革や活性化をもたらす手法はまさに21世紀型」との評価と返答をいただいた。テキスト完成を機に、両経営大学院の招きで2度の特別記念講演も行った。

'98

1998〜2001年
Gマーク民営化における改革に注力

41年続いたGマーク (グッドデザイン賞)が民営化されることとなり、中西が総合審査委員長の依頼を受ける。Gマーク事業は一時は応募点数が5,000点を越えていたが、バブル経済の崩壊により当時は1,500点を切るような状況で、経営危機に瀕していたのである。そのため、総合審査委員長とはいえ、実際は同時期に就任された久禮彦治理事長との二人三脚で、この表彰制度の経営を建て直し黒字化を図ることにその使命はあったと言える。
システム疲労を起こした仕組みの建て直しは、企業の場合でも同様だが、存立哲学から洗い直し、仕組みの全てにおいて再構築を図ることが肝要であった。加えて、主要な応募企業のデザイン責任者への説得と一企業の枠を越えたわが国デザイン界全体を優先して考える政策への協力要請、旧来のデザイン発想からの転換をシンボライズする新領域部門等の開設など、殆ど企業再生に近いような民営化策&黒字化策を3年間かけて実施。幸いにして蘇生に成功を果たし、その後順調に発展を辿っている。

'99

1999年〜
NISSAN VIの世界標準を開発

日産自動車の「NISSANリバイバルプラン」への参加要請を受けた際のプロジェクト目標は、カルロス.ゴーン社長主唱の“NISSAN”パワーブランド化であった。この日米欧の統一的VI (Visual Identity) の世界標準の開発プロジェクトは、世界の著名クリエイティブオフィス6社参加の指名コンペで始まった。紆余曲折はあったものの、最終的にPAOSがNISSANパワーブランド化のための膨大なVI体系を、その後3年半かけて開発していくことになる。その成果としてのシステムが、現在世界的に展開されているNISSAN Visual Identity System である。


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